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誤解を恐れずに回答するならば、YESです。
ただ、このレベル感は定義をつけるから存在するものです。
正しいことを正しいと思う気持ちを、人間は必ず持っているはずです。
ところが、誰かの話を聞いたときに、正しいと思う人と、間違えてると思う人が出てくる。
私は、私の価値観はちょっと変わってると思っています。
息子の学校の校長先生とお話をしました。
その先生の話は、時々、論点がずれるものですから、よくわからないことがあります。
また、発言が曖昧で「ということは、こういうことですね?」と、聞いてもいえいえ私はそういう風には言ってません。。。とのこと。
実は、このはっきりとしないで、筋が通ってないのが、私は嫌いなのです。
それこそ、雑談レベルであればいいですけど、、、
大切な話の時は、困るじゃないですか。
何を言ってるのかわからなくて。
ついつい、じゃあどういう意味ですか?
と、突き詰めてしまった結果、校長の口から出た言葉は「私は校長ですよ」でした。
正直愕然としました。
それは、小学生が言い合いを始めたときに、「おまえの母ちゃんでべそ」と言うのと同じでしょ?
なぜ、この発言が出るかというと、多分、言い合いに負けそうだから、言うわけです。
つまり、正論で勝てなくなったから、相手が違う方法で攻撃するわけです。
しかも、その相手を直接ではなく、相手の親という別の攻撃方法に逃げたわけですね。
で、校長先生の話に戻ります。
私は校長ですよ。
と、言うのは、私は偉いんですよということに、逃げたわけですよね。
言葉を訂正し続ける私に、不満を感じてるというわけです。
ですが、私には、校長という肩書きは、何の興味もありません。
何か???
さて・・・何が言いたいかというと、ここで、標題のレベルの話に戻ります。
私にとって、「先生」という職業は尊敬すべき職業であって、私にとって、先生は、私を導いてくれる人でした。
学ぶべき者がたくさんあり、私を育ててくれたと思っています。
でも、今の学校では、こういう人が校長になれるんですね。
世間体を気にして、表現を曖昧にし、間違いを恐れる。
ここで、何を教わり、何が育まれるのかを考えると、微妙です。
きちんと育ててくれる先生=いい先生
これが、私の中にある定義であり、そこを基準にレベルが存在していると思っています。
天は人の上に人をつくらず。
ただし、人は人の上に人をつくり、人の下に人を作る。
ただの、つぶやきでした。
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